2010年02月18日

インド:比叡山 行院

インドから帰り
比叡山 行院に向かった。

僧侶になるための基礎的な
精神、技術を学ぶのが目的。

約二ヶ月の行は、早朝より夜まで
びっしりと予定が組まれていました。

私はアメンボが広い広い水たまりを
スーイスーイ。
と進むように、息苦しい日程を
楽しみました。

一番印象に残っているのは、
堀澤祖門院長の話。

「きみたちも行院だけじゃなく
 インドに行ってきたまえ。」

とボソリと話されたことを
覚えています。

行が進んでいくと
分刻みの日程のストレスか
食事が一番の楽しみになる。
日程が進めばすすむほど
食べる量は増えましたが
顔の頬はこけていきました。

食事には、作法がありました。

 箸は右手で。
 音と立てない。
 先生、導師よりも早く終わる
 ご飯茶碗をもったまま、皿の上のおかずを食べない。

私の隣の修行僧は、左きき。
初日に、「左ききはいるか?」
と聞かれ、その時より、右に箸を
もち食べていました。
他の人と同じ量を食べていては
とてもじゃないけど終わらないので
食べる前に量を減らしていました。

私は、同情もなしに、ありがとうと
それをいただき、それだけでは足らず
ご飯をお仏壇にお供えするご飯のように
ペタペタと山盛りにし、そのご飯の中に醤油を数滴
たらしておきました。茶碗と皿と持ち帰る時間がないので
ご飯を食べるときはご飯しか、食べれないので味が
ほしくなっていたのです。

ある食事の時。用意ができて
先生達が入場してきました。
私の山盛りのご飯茶わんをみて
プッ少しふき出して、堀澤院長が一言。

「ご飯茶わんに箸がのらなければ
 机においてヨシ。」

楽しい思い出です。

護摩の修法も教えていただきました。
火に導かれながら、あっという間に
終えたことを覚えています。






十方・・・・・・・・方と言うのは方角の事でして、一般には方角を呼ぶのに東西南北と言いこれを四方と呼んでいますが、更に東南方、西北方というようなものを入れますと八方となります。仏教の場合は四方、八方とは言わず十方と言います。その十方というのは、八方の更に上の方、下の方の二つを加えたものです。八方は平面ですが十方になると立体になり、空間全部を表現することになってきます。

ところでその十方で最近ひょいと気がついたんですよ。この十方という言葉だけでも我々はサトリがひらけるんじゃないか、あらゆる迷いから解脱できるんじゃないかというふうに私は考えておりまして、十方ということに新しい意味づけをしたわけです。新しいなんて申しますと大そうに聞こえますが、実は誰だって知ってたんでしょうけれど、現代語でそういったことを表現した人は余りいないんです。

その一つは方角には中心があるということ。つまり十方という場合の方角は何が中心かということなんです。上の方というのはいったいどこからスタートをきるかといいますと、私から出るわけです。下の方も東も西もみな私から出るわけです。皆さん方も自分の立場からいったら、自分からあらゆる方角は出るわけです。

そこで結論は、方角の中心は他ならぬ自分であるということなんです。十方と言いましても単なる方角だけでは散漫としておりますが、それが自己という中心点をつかむことによってこれは主体的になり、修行の中心点がはっきり決まるわけです。

それともう一つ、その十方という方角の大きさを決めてみたいと思うんですが、たとえば上の方はどこまで行ったらこの方角がなくなるんかと考えるわけです。つまり方角に距離があるのかないのか、まあ馬鹿げた話と言えば馬鹿げた話なんですが、我々は頭で知っていても、実感として知っていないわけです。それがつまり、大事なことが分からない理由なんです。

ですから上の方に、つまり私から始まった上の方という方角を無限大にのばしていっても、どこまでいっても上は上ですね。下も同じ、また東も、どこまで行っても東の方です。つまり方角というのは方向性を持つだけであって距離は関係ないわけです。ですからどこまで行ってもこれは続くわけで、だから無限大といいますか一切の枠や壁がないということになる。

この二つのことをしっかりと押さえておいて十方ということを考える。「自分」という存在を中心にして----十という言葉の意味にはあらゆる方角が入って来ると思います----あらゆる方角に向かって、どこまでものびきっているこの大空間によって構成されているすべての領域を、そういう空間を称して十方法界というわけです。あるいは十方世界といっても構わないし、十方空間といってもいい。

いずれにしても十方というものは自分が中心だということ、この大変大事なことがらの中心点が自分にあって、自分以外の何物でもないということが極めて大切なことだと私は思う。つまり私にとっての十方法界のド真中にいるのは私であり、私が中心であり私が主人公なんです。他人が入ってくることを許さないんです。たとえそれがお釈迦様でもアミダさまでも、私自身の十方法界のド真中に入ってくることを許してはならないのです。これだけ堅固な十方法界のド真中の場に自分が居るんだという自覚を持つことが素晴らしい。(求道遍歴より引用)





「きみたちも行院だけじゃなく
 インドに行ってきたまえ。」


タグ :仏教


Posted by katsukino at 16:11│Comments(0)
 
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