2008年10月23日
処

パンチの効いた料理は、スープ、野菜、前菜、ピザ、パスタ、オムライスとどれも息子の口にパクパクと運ばれました。一通り食べ終えて、満足な息子。しばらくして、母さんが「じゃあ、私たちは帰ります!」と息子を連れて店を出た。久しぶりの家族との再開で気持ちも高ぶっているだろう母さんだけど、食べ終えた息子は一日の乗り物疲れと、夜の時間でオヤスミモードだった様子をしっかりと読み取ったようだ。
残った私たちはそれから、息子のオバとオバーがカクテルを一杯づつ楽しむ時間を経て家に戻りました。家に戻ると、母さんと息子がいない!どうやら鍵を持っていなかったらしく、家の周りをしばらく探していたら、タクシーで戻ってきました。
それから話を母さんから聞くと、母さんも自分でいい判断で店をでたと満足して、(このまま歩きながら疲れて家につくころには抱っこで寝てくれたらと)、思い抱っこで歩きはじめたら、ぜんぜん寝る気配もなく、自分で歩きはじめた。(息子もたくさん食べたから、食後の運動になると)思っていたら、水溜まりの道をジャプジャプ歩いてズボンを濡らし、身体が冷えないかと心配し、ようやく家についたら、鍵がかかっていて入れなくて、再び店に歩いて戻る事に(日頃運動不足だからイイチャンスだ)と疲れて寝てしまった息子を抱っこして、店まで戻ると、入口の傘がなくて、入れ違い。そうかー帰ってしまったんだ、近いけどタクシーで帰ろうと、タク
シーで家に戻ってきました。
いつもだったら、後部席で、鍵をちゃんと確かめればよかった、息子は冷えて風邪がひどくならないだろうか、はぁー歩き疲れた!と後悔の妄想がよぎるけど、
今夜は、ただただ、脱力。
そうしたら、無事に布団に寝かしつけた後も、疲れがないよ!とあったかい風呂上がりに満足の様子で語っていました。
ちょうど私が読んでいたポー・オー・パユットー著のテーラワーダの叡智「仏法」の「処」のページ。
処は善か不善かの始まりであり、分かれ道である。一方は放逸や悪に溺れ、世間に〇溺する方向へと導く。もう一方は覚知、善業、自由な解脱へと導く。このことの重要性は、もし、処について、正しく理解するよう修習し実践しなければ、一般に人間すべては、世間を感受することを目的とした生き方に引き込まれ、気に入った色、声、香、味、触を求めるためだけに様々なことを行い、自己の目、耳、鼻、舌、身、心に奉仕する様々な娯楽が、貪、瞋、痴を増やして、自分にも他人にも混乱と苦痛を生むことにある。
このまま1時間寝てくれたらなー
もう少し一人遊びしていたら。
もう少しで布団がおしっこで汚れなかったのに。
と理想と現実で苦しみをうむのではなくて積極的に、集中しながら一つの行為をおこなっていきましょう。息子の反応を積極的にとらえるか消極的にとらえるかで、善、不善の結果になる。お母さんの期待した通りに子供が行為してくれなくてもそれらを善として受け止めていけば最後には善がお母さんに残る。結果、子供にも善な状態が影響する。善な影響を受けた子供は安心と自信を得てのびのびと目の前の世界にとびこんでいけるでしょう。
Posted by katsukino at 10:20│Comments(0)