2009年10月15日

タイの僧院にて



ブッダ 大いなる旅路 4
タイの僧院にて

歩くこと、息をすうこと、はくこと。物を食べること。痛みやかゆみを感じること。すべてをつぶさに観察することによって欲望や執着にとらわれている自分の姿を知る。

自分には子供がいると言ってそれに執着するのはおろかしい。自分が自分の物でないのにどうして子供が自分の物であろうか。

執着を離れた時、目の前にすがすがしい世界が広がっている。

タイでは19世紀に改革された仏教が僧院を中心として社会に浸透しています。しかし、それは、人を縛るものではありません。すべてが一人一人の行いに任されています。出家する人。お布施をする人。それぞれが自分を見つめ他人と共に生きていく。2500年前に生まれた仏教が幾多の歴史を経てタイの地で確かに実践されていました。




法の実践とは、法を生き方や仕事のやり方に用いる、すなわち法を用いて実際の生き方に役立てることです。法を実践するときは、実際の生活に法を用いる、あるいは生きることに役立てることです。もし、このように使わないなら、実践とは言えません。この「実践」という言葉自体に、パーリ語から「歩む」という意味の言葉を加えれば、「道」(patipada)というもう一つの言葉になります。「道」とは何でしょうか?「中道」と訳している「マチマー・パティパダー」という言葉の中で、「マチマー」は真ん中、「パティパダー」は道です。「パティパダー」という言葉は、「歩むところ」という意味です。
(略)
この「道(Patipada)」、あるいは「実践(Patipatti)」が、歩むこと、あるいは歩む道という意味であるとき、法の実践とは、善い生き方をするために、法を用いて生きる道を歩むこと、あるいは正しい生き方をすることを助ける、もしくは生きる歩みを助けることです。
もし法を用いなければ、繁栄する安楽の道の代わりに、生きることの歩みを誤るかもしれないことを意味します。だから、私たちは法に助けてもらい、法を実践する、つまり、法を用いて生きることの歩みを正しく、役に立つようにするのです。やさしく言えば、法を用いて私たちの生活に役立たせることです。したがって、法の実践は広範囲で、社会を避けて離れたり、寺に籠ったり、森に籠ったりして、坐って定の実践のようなことをすることだけではありません。それは一部のことで、真剣に法を心の修習の深い段階に用いようと努力することです。
(略)
仕事をする、あるいは自分の義務を正しく善く行い、役に立たせよう、善い目的を成就させようと決心するとき、法を実践していると言えます。したがって、自分に学習する義務があり、正しく学習し、努力して学ぶ決心をし、その果を得ることは、法を実践したことになります。(略)路上で自動車を運転するとき、交通法規を守って、放免でなくきちんと、乱暴でなく運転することです。あるいはさらに深く入って、運転するときは緊張せず、心を清らかに気持ちよくすることすら、様々なレベルの法の実践です。(略)したがって、真の法の実践は常にあります。というのも誰しもが善く、正しく生きる義務があるからです。(仏法の思考と実践―テーラワーダ仏教と社会より引用P10)


子供の育てる。
親の世話をする。
仕事をする。

自分のしたいことではなくて
自分が出来ること。
その出来ることを正しく善く行うこと。

本当の自分はこれをしたい。
今の自分は自分じゃないと
グルグルと運動場を回るのではなく

現在に気づきを得ながら
自分という法を実践していく
らせん状の階段を一歩一歩
右足、左足を歩いて行きましょう!



Posted by katsukino at 14:59│Comments(0)
 
<ご注意>
書き込まれた内容は公開され、ブログの持ち主だけが削除できます。