2009年11月17日

タイ:歩むところ

昨日の夜に、シャワーで足ふみで洗濯した
パンツとシャツは、すっかり乾いていました。



法の実践とは、法を生き方や仕事のやり方に用いる、すなわち法を用いて実際の生き方に役立てることです。法を実践するときは、実際の生活に法を用いる、あるいは生きることに役立てることです。もし、このように使わないなら、実践とは言えません。この「実践」という言葉自体に、パーリ語から「歩む」という意味の言葉を加えれば、「道」(patipada)というもう一つの言葉になります。「道」とは何でしょうか?「中道」と訳している「マチマー・パティパダー」という言葉の中で、「マチマー」は真ん中、「パティパダー」は道です。「パティパダー」という言葉は、「歩むところ」という意味です。
(略)
この「道(Patipada)」、あるいは「実践(Patipatti)」が、歩むこと、あるいは歩む道という意味であるとき、法の実践とは、善い生き方をするために、法を用いて生きる道を歩むこと、あるいは正しい生き方をすることを助ける、もしくは生きる歩みを助けることです。
もし法を用いなければ、繁栄する安楽の道の代わりに、生きることの歩みを誤るかもしれないことを意味します。だから、私たちは法に助けてもらい、法を実践する、つまり、法を用いて生きることの歩みを正しく、役に立つようにするのです。やさしく言えば、法を用いて私たちの生活に役立たせることです。したがって、法の実践は広範囲で、社会を避けて離れたり、寺に籠ったり、森に籠ったりして、坐って定の実践のようなことをすることだけではありません。それは一部のことで、真剣に法を心の修習の深い段階に用いようと努力することです。
(略)
仕事をする、あるいは自分の義務を正しく善く行い、役に立たせよう、善い目的を成就させようと決心するとき、法を実践していると言えます。したがって、自分に学習する義務があり、正しく学習し、努力して学ぶ決心をし、その果を得ることは、法を実践したことになります。(略)路上で自動車を運転するとき、交通法規を守って、放免でなくきちんと、乱暴でなく運転することです。あるいはさらに深く入って、運転するときは緊張せず、心を清らかに気持ちよくすることすら、様々なレベルの法の実践です。(略)したがって、真の法の実践は常にあります。というのも誰しもが善く、正しく生きる義務があるからです。(仏法の思考と実践―テーラワーダ仏教と社会より引用P10)


バンコクの町を歩いていると
道端にフルーツ、お粥、ヌードル、
唐揚げ、炭火焼の魚、チキン、
デザート、サンドイッチ

とありとあらゆる料理が並んでいます。
油断すると葛藤が増えます。
「今しか、タイにはいないから、食べれるだけ
食べたい!あれは何だろう。これは何!」
とにかく、食べなきゃ損!と葛藤が増え

でも、タイ語は分からないし、値段表もタイ語
だし、どうすればいいのー
と気の小さい心がまた葛藤を増やし
葛藤の右往左往。

食べる為に来たんじゃない!と
気づき
に集中し、朝はお粥だ。
と心を一つに選ぶ。

実践と教法の真の意味は、教科書を読み覚えるだけの知識なら、そのように人の説法を聞いた法ということで、教法の段階です。それを取り込んで訓練し、実行することが実践の段階で、この教法と実践という二つを合わせたものを学習と呼ぶのです。P15
(略)
実践は歩むことだと言いました。私たちは自分では正しく歩めないのです。自分に自信がありません。だから経験のある人、もうすでに歩んで来られたお方に知識を求め、教法を学ぶのです。教法を学ぶ理由はその教法に助けてもらうためです。これまで経てこられた体験を学び、便利に歩むためです。
(略)
目的を成就させる原理に従っての実践において、その途中には荒れた道や曲がり道、穴や池のある道、分かれ道が一杯あります。もし私たちに知識がなければ、間違った道を進んだり、危険な目に遭うかもしれません。私たちがどれだけ賢明かにかかっています。でもこれまで通った人の体験を得られれば役立てることができて、助かると思います。だから教法を学ぶのです。もし、まったく教法に頼らないとすれば、実践して歩みを誤るという危険があります。
(略)
教法は地図のようなものです。地理の知識、あるいは旅行案内のようなものです。地理の知識、あるいは旅のアドバイスを与えてくれる旅行案内は、私たちにその道がどこに通じるのか、正しい途中の道に何があるのか、どこを通って、見るべきものに何があるか教えてくれます。それ以上い、時にはどこに泊まったらいいか、注意すべきものに何があるか、特別な知識を得られるものに何があるかなど教えてくれ、私たちはあらゆる準備をすることができます。
地図や地理の本は、前もって調査した人が作ったものです。もし、これらが間違っていたら非難すべき複雑な問題が生じますが、それはまた別の問題です。要約すると、教法がないと旅を間違え危険な目に遭う恐れがあるということです。(仏法の思考と実践―テーラワーダ仏教と社会より引用P20)


タイのガイドブックに説明されているのは
どこそこの食べ物はおいしいとか
どこそこの買い物はリーズナブルとか
どこそこの景色はサイコーだとか
と五感を満足させてくれる地図。
葛藤が右往左往する地図。

夜な夜な、地図を見ながら
えー!一日目に行った場所は
いろんな買い物ができたんだー
あの時はクルンテープに挨拶に
行きなさいとだけ言われ、その通り
そのまま挨拶して、宿に戻ってしまった!

デパートの中も行ってみるんだった。
買い物をキーワードに夜な夜なインターネットで検索。
知れば知るほど、葛藤が増す。

深夜に気づく。

さて、日本から持ってきた法という地図には
なんてかいてあるのだろうか。


 かれは、世界に対する貪欲を捨て、貪欲の消え失せた心をもって住み、貪欲から心を浄めます。瞋恚(しんい)を捨て、害意のない心をもち、すべての生き物を益し、同情して住み、瞋恚から心を浄めます。沈鬱・眼気が消え失せ、光明想をそなえ、念と正知をそなえて住み、沈鬱・眼気から心を浄めます。浮つき・後悔を捨て、浮つき・後悔がなく、内に静まった心をもって住み、浮つき・後悔から心を浄めます。疑いを捨て、疑いを脱し、もろもろの善法に対して疑惑をもつことなく住み、疑いから心を浄めます。
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 かれは、世界に対する貪欲を捨て、貪欲の消え失せた心をもって住み、貪欲から心を浄めます。
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「欲」の定義を知らずに「欲」はなくせない
ここで欲とは何かを具体的に理解しなくてはなりません。たとえば「貪欲はよくない」とはよく言われますが、私たちはそれをはっきり分かっていないと思います。言葉を使う場合は意味をしっかり理解し、はっきり定義しないと、いつまでも曖昧で中途半端になり、修行がしっかりできないのです。
(略)
まず我々は一般的に「欲張り」というと、お金をたくさん欲しがっている人や食べ歩きをしまくる人などを思い浮かべるかも知れません。では、金銭欲、グルメ、夜遊びなどは、なぜ欲と言うのでしょうか?
(略)
我々は結局、体にある五つの感官ー「眼」「耳」「鼻」「舌」「身体」を楽しませたいという欲求をもっています。触れることで身体を、音で耳を、香りで鼻を、味わうことで舌を、見ることで眼を楽しませたがっているのです。ですから、眼、耳、鼻、舌、身という五つの感官は、色、声、香、味、触という五つの対象を欲しがっているのです。この五感が刺激を欲することが欲なのです。(沙門果経p233より引用)


五つの感官
「眼」「耳」「鼻」「舌」「身体」
を楽しませたいという欲求がある

ということを知る。
欲しがっている
ということを知る。

地図が明確に教えてくれます。
そっちは、あなたの行く場所ではないよー
ここがあなたのいる場所ですよ。

今日一日は
そんな一日にしていこう。

昨日朝食べた、お粥の店はしまっていました。
コンビニでパンを買って、道端の店でパインとサトウキビを買い
ホテルに戻って朝食をとりました。


タグ :仏教


Posted by katsukino at 12:39│Comments(0)
 
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