2009年12月17日

タイ:沖縄より考察 ヨーガ

今回のタイへの修行において
自分の中でサティ、気づきを得ていようと
思っていたことが二つあります。

一つは
信(saddha)

1. 信(saddha)確信が増えたかどうか
2. 戒(sila)生き方が規則正しく善くなったか
3. 聞(suta)自己開発について十分に学んだか
4. 煩悩(貪、瞋、痴)が減ったか
5. 慧(panna)学んだことを理解したか

ヨーガの合宿中、瞑想ホールにはブッダが
鎮座していました。寺院ではなかったので
象徴的におかれているような感じでした。

アーサナ、プラーナヤーマ、瞑想が終わって
ホールを出る時に、必ず、正座して手を合わせ

生きとし生けるものが
幸せでありますように。

とサティを行いました。
この行為を合宿中の信に
しようと、決めました。

瞑想が終わると
他の人はそのまま出ていきます。
今までの私だったら
そこで私だけやるというのは何か
変だ。恥ずかしい。という心が生じ
たとえ手を合わせてもただただ、恥ずかしい心で
形式的に手を合わせていました。

信の心を増やしていく!
と心に決めていましたから
出来るだけ決意をもって
周りを気にせずに座り手を合わせました。

タイ:沖縄より考察 ヨーガ

最終日に近くなった頃気づきました。
私は物を考えながら講義を聞いている。
自分の考えと比較しながら妄想している。
私は姿勢を緊張させている。
座るとは、姿勢を崩さない、カッコよくみせるもの
だと思いこんでいる。

何の為に座っているのか。
何の為に講義を聞いているのか。
はっと気づきました。

生きとし生けるものが
幸せでありますように。

現在において
私が幸せでありますように。
生きとし生けるものが
幸せでありますように。

一人の生き物から
すべての生き物が
幸せでありますように。

その為に座って、
聞いているのです。

姿勢を崩さない。カッコよく見せよう。
話を聞いて何か得をしよう。
他の人よりも有利な状態になろう。

と妄想している私は生きとし生けるものに
幸せに願っていないし、私が幸せになりますように
とも願っていない。

エゴが主張しているだけに
過ぎませんでした。

仏像に手を合わせるという
「信」を行った結果得た慧でした。



信:信じること、心が突き進んで求め、追随することで、第五項の慧と対になります。もし信が強すぎれば、簡単に信じて簡単に受け入れてしまい、一直線にのめりこむまで信じて進む傾向があります。慧だけあると、考えることが多すぎて、必要以上に疑うか、急いで否定して揺れ動き、何も深く捉えられない傾向があります。そこでブッダは信と慧と平等に均衡をとるように言われます。(仏法の思考と実践P79より参照)


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Posted by katsukino at 12:39│Comments(0)
 
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