2010年02月25日

三歳六カ月頃:自分という境界線

三十七歳の脳科学者がある朝、
脳梗塞を起こし、自分の脳の
情報処理能力が完全に衰えていく
様子を見つめた本です。



この時点で、わたしは自分を囲んでいる三次元の現実感覚を失っていました。からだは浴室の壁で支えられていましたが、どこで自分が始まって終わっているのか、というからだの境界すらはっきりわからない。なんとも奇妙な感覚。からだが、固体ではなくて液体であるかのような感じ。まわりの空間や空気の流れに溶け込んでしまし、もう、からだと他のものの区別がつかない。(P28)(奇跡の脳より参照)

「自分であること」は変化しました。周囲と自分を隔てる境界を持つ固体のような存在としては、自己を認識できません。ようするに、もっとも基本的なレベルで、自分が液体のように感じるのです。もちろん、わたしは流れている!わたしたちのまわりの、わたしたちの近くの、わたしたちのなかの、そしてわたしたちのあいだの全てのものは、空間のなかで振動する原子と分子からできているわけですから。言語中枢のなかにある自我の中枢は、自己を個々の、そして固体のようなものとして定義したがりますが、自分が何兆個もの細胞や何十キロもの水でできていることは、からだが知っているのです。つまるところ、わたしたちの全ては、流動している存在なのです。

左脳は自分自身を、他から分離された固体として認知するように訓練されています。今ではその堅苦しい回路から解放され、わたしの右脳は永遠の流れの結びつきを楽しんでいました。もう孤独ではなく、淋しくもない。魂は宇宙と同じように大きく、そして無限の海のなかで歓喜に心を躍らせていました。
(略)
わたしの目はもはや、物を互いに離れた物としては認識できませんでした。それどころか、あらゆるエネルギーが一緒に混ざりあっているように見えたのです。視覚的な処理はもう、正常ではありませんでした。

わたしの意識は覚醒していました。そして、流れのなかにいるのを感じています。目に見える世界の全てが、混ざり合っていました。そしてエネルギーを放つ全ての粒々(ピクセル)と共に、わたしたち全てが群れをなしてひとつになり、流れています。ものともののあいだの境界線はわかりません。なぜなら、あらゆるものが同じようなエネルギーを放射していたから。それはおそらく、眼鏡を外したり目薬をさしたとき、まわりの輪郭がぼやける感じに似ているのではないでしょうか。
(P72)(奇跡の脳より参照)


3歳6か月の頃でしょうか。
朝、おきたとき、フトンに一人ぼっちだと
キレる息子。しばらく泣いて、お母さんが
迎えにいくと。

(目が覚めたときに)隣にいてほしかった。
(泣く前に)迎えに来てほしかった。

と現実を巻き戻そうとしました。
自分という境界にお母さんは一体なのでしょう。

それから、しばらくして
ぼくの。
と別の境界の自分が生まれてきました。

お腹の中に入るとき
お母さんと胎児は一つ。自分の枠です。
お母さんの心がそのまま胎児の心でしょう。

産み落とされたあと
おっぱいを飲んでいるとき
おっぱいを通して自分を必死で
つかんでいるのでしょう。
おっぱいを飲んでいる、抱っこされているとき
自分になって、あとは、引き離され自分はどこ?
自分の枠が混乱し始めたのでしょう。

目や耳、感覚器官が成長し
心が成長を始め

自分が手の
指先までと
知覚する。

田舎に電話をすると
「おばあちゃん最近どう?」

 「もうあかんは。朝起きると
  足の感覚がないんやって。
  足がどこまでかわからん。」

生きるということは
自分という枠を知覚すること。


タグ :子育て


Posted by katsukino at 14:05│Comments(0)
 
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