2010年11月15日
母親への信頼
子育てをする
という実践と
子供はこんな風に育って欲しい
私はお茶を飲みたい。遊びたい。仕事をしたい
という願望。
実践をすれば、赤ちゃんとの信頼が生まれ
願望で時間が過ぎると、赤ちゃんが不安になり
母親も不安になる。
生きる
という実践を
学んでいくのがスタート地点。
という実践と
子供はこんな風に育って欲しい
私はお茶を飲みたい。遊びたい。仕事をしたい
という願望。
実践をすれば、赤ちゃんとの信頼が生まれ
願望で時間が過ぎると、赤ちゃんが不安になり
母親も不安になる。
生きる
という実践を
学んでいくのがスタート地点。
生物的学習
絶対的な安心感があった子宮から生まれ出た子どもに、子宮にいた時と同じような安心感を与えるのが、母親の抱擁や言葉かけです。その中で子どもには、自分を保護してくれるのが母親であり、自分は母親と同じ生き物であると刷り込まれます。こうした密着状態を通して、母親への絶対的な信頼感(原信頼)が生まれる。
生態的学習
原信頼があるから、母親の行動を真似たいという衝動が起きます。そうして生きる術を学んでいく
母親への信頼が、母親が一緒にいる人への信頼へと広がっていきます。信頼がなければ絆が生まれません。まず、母親への原信頼があり、次に父親と絆を結び、祖父母や兄弟と絆を結んでいきます。長じて集団に入る時も、母親という基地に帰れる安心感があるから踏み出せるんです
「生物的学習と生態的学習が基盤となってはじめて、体外脳を正式に応用できます。今は最初の2つの段階を省略したまま、頭ばかり大きくなって、それを支える生物としての土壌が細まっていて、バランスが悪い状態です」(元上野動物園園長 中川志郎 ウェッジ2010年4月号より)
人は一瞬一瞬ごとに行為を積み重ねて生きています。それら行為一つひとつを生み出すのは心です。もし幸せに満ちた理想的な人生を送りたいと願うなら、活き活きとして調和のとれた心を手に入れることが欠かせません。
(略)
普通の人の心を検証してみると、衆生を三種類―親しみを感じる人、嫌いな人、好きでも嫌いでもない自分とはかかわりのない人―に分類していることに気づきます。ある特定の人や生き物のことは、親しい友人や親戚だと思っています。その一方で、別の人のことを、あいつは自分や自分の友人、親戚、持ち物に被害を与えたことがある、とか、今もあいつの被害にあっている、とか、きっとこの先も同じだろうなどと考えて、その人と距離を置いて付き合います。こう考えるせいで私たちは、その人を嫌うようになります。
(略)
ふつう私たちは、友人や親戚に親しみを感じてやさしく接するものですが、このやさしさも、結局は愛着や執着から来ています。そのことに気づくことも大変に重要です。一見やさしさのように見えても、裏に利己心が潜んでいることがあります。私たちは、「あの人はこんな風に私を助けてくれた」とか「あの人と私はこれこれの間柄だから」などと先入観をもっています。つまり、私たちはふつう、厳密にいえば「執着」と呼ぶべきものを「やさしさ」と呼んでいるのです。
では、慈悲に基づく本当のやさしさとは何でしょう?慈悲とは、何よりも他者の利益―幸福と苦しみ―に関心を向ける心です。他者は、あなたと同じように、できる限り苦しみを避けたいと願っています。ですから、慈悲ある人は、他者が苦しんでいると、それを案じて、彼らを苦しみから解き放ってあげようと強く思います。
凡人が感じる友人や親戚への親近感は、愛着と大差ありません。それは、なくすべきものであって、強めるものではありません。愛着と慈悲を混同してはいけません。論書によっては、「愛着」という言葉が慈悲の意味で使われている場合もあります。
愛着には、慈悲と似たところもあるのですが、愛着が、ものごとの真のあり方を間違って理解しているせいで生じるのに対し、慈悲は、ものごとの真のあり方に関する誤解などには関係ありません。慈悲の心は、衆生を苦しみから解放してやりたいという願いから生じるのです。(大乗の瞑想法より引用P68)
Posted by katsukino at 11:00│Comments(0)
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