2010年07月25日
煩悩
ただいまー
と元気に保育園より戻り
台所まで突っ走ってくる息子。
ねぇー
今日何食べるの?
とキッチンを除く。
焼き魚が一枚、皿の上にある。
おとーさーん。
これ、ぜーんぶ、食べたくなっちゃった。
と息子。
いいよー。でもね、お父さんとお母さんも
食べたいからみんなで分けて食べようね。
でもさー
ぜーんぶ食べたいのにー
と夕食が始まる。
次から次へと焼き魚の身を
口に運ぶ。
お父さんもお母さんもたくさん食べないから
ゆっくり、あわてずに、食べなさい。
と伝えると、少しだけ、スローペースになる。
私は息子の心の動きをみて、欲の活動を見る。
好きなものはすべて自分。
嫌いなものはすべて他人。
心ははっきりしている。
好きなものを求め
嫌いなものを避ける。
それらを求めても得られないから
苦しむのだ。
もーお腹いっぱい
になっちゃった。
と焼き魚の表の部分を
食べ終えて言う。
そうかー
始めから食べれる量だけ
自分のお皿にとるのがいいよね。
だから、始めに慌てて、全部食べよう
と思わなくてもいいよねー
と伝える。
そんなこと言われなくても
というような顔をしながら
首を横に少しふる息子。
仏教の戒律に五戒があります。その二番目に
与えられたもの以外を取らないという
戒めを受けて守ります。
とあります。
足るを知るですね。
食事の場合で言えば、
自分が食べられる量以上は
取らないということでしょう。
心が健全に育つと
欲も現れてきます。
汚いものに蓋をするように
押さえつけるのではなく、
子ども自身によって、観察
できるよう、対話をすることを
心がけています。
どうやって、伝えれば子どもが観察できるのか。
親自身の心を観察することであり、
親にとっての宿題ですね。
と元気に保育園より戻り
台所まで突っ走ってくる息子。
ねぇー
今日何食べるの?
とキッチンを除く。
焼き魚が一枚、皿の上にある。
おとーさーん。
これ、ぜーんぶ、食べたくなっちゃった。
と息子。
いいよー。でもね、お父さんとお母さんも
食べたいからみんなで分けて食べようね。
でもさー
ぜーんぶ食べたいのにー
と夕食が始まる。
次から次へと焼き魚の身を
口に運ぶ。
お父さんもお母さんもたくさん食べないから
ゆっくり、あわてずに、食べなさい。
と伝えると、少しだけ、スローペースになる。
私は息子の心の動きをみて、欲の活動を見る。
好きなものはすべて自分。
嫌いなものはすべて他人。
心ははっきりしている。
好きなものを求め
嫌いなものを避ける。
それらを求めても得られないから
苦しむのだ。
もーお腹いっぱい
になっちゃった。
と焼き魚の表の部分を
食べ終えて言う。
そうかー
始めから食べれる量だけ
自分のお皿にとるのがいいよね。
だから、始めに慌てて、全部食べよう
と思わなくてもいいよねー
と伝える。
そんなこと言われなくても
というような顔をしながら
首を横に少しふる息子。
仏教の戒律に五戒があります。その二番目に
与えられたもの以外を取らないという
戒めを受けて守ります。
とあります。
足るを知るですね。
食事の場合で言えば、
自分が食べられる量以上は
取らないということでしょう。
心が健全に育つと
欲も現れてきます。
汚いものに蓋をするように
押さえつけるのではなく、
子ども自身によって、観察
できるよう、対話をすることを
心がけています。
どうやって、伝えれば子どもが観察できるのか。
親自身の心を観察することであり、
親にとっての宿題ですね。
心のけがれ
仏性を覆いつつむ煩悩に二種類ある。一つには知性の煩悩である。二つには感情の煩悩である。
この二つの煩悩は、あらゆる煩悩の根本的な分類であるが、このあらゆる煩悩の根本となるものを求めれば、一つには無明、二つには愛欲となる。この無明と愛欲とは、あらゆる煩悩を生み出す自在の力を持っている。そしてこの二つこそ、すべての煩悩の源なのである。無明とは無知のことで、ものの道理をわきまえないことである。愛欲は激しい欲望で、生に対する執着が根本であり、見るもの聞くものすべてを欲しがる欲望ともなり、また転じて死を願うような欲望ともなる。この無明と愛欲とをもとにして、これから貪り、怒り、愚かさ、邪見、恨み、嫉み、へつらい、たぶらかし、おごり、あなどり、ふまじめ、その他いろいろの煩悩が生まれてくる。
貪りの起きるのは、気に入ったものを見て、正しくない考えを持つためである。怒りの起きるのは、気に入らないものを見て、正しくない考えを持つためである。愚かさはその無知のために、なさなければならないことと、なしてはならないこととを知らないことである。邪見は正しくない教えを受けて、正しくない考えを持つことから起きる。
この貪りと怒りと愚かさは、世の三つの火といわれる。貪りの火は欲にふけって、真実心を失った人を焼き、怒りの火は、腹を立てて、生けるものの命を害う人を焼き、愚かさの火は、心迷って仏の教えを知らない人を焼く。
まことに、この世は、さまざまの火に焼かれている。貪りの火、怒りの火、愚かさの火、生・老・病・死の火、憂い・悲しみ・苦しみ・悶えの火、さまざまの火によって炎炎と燃えあがっている。これらの煩悩の火はおのれを焼くばかりでなく、他をも苦しめ、人を身・口・意の三つの悪い行為に導くことになる。しかも、これらの火によってできた傷口のうみは触れたものを毒し、悪童に陥し入れる。
貪りは満足を得たい気持ちから、怒りは満足を得られない気持ちから、愚かさは不浄な考えから生まれる。貪りは罪の汚れは少ないけれども、これを離れることは容易ではなく、怒りは罪の汚れが大きいけれども、これを離れることは早いものである。愚かさは罪の汚れも大きく、またこれを離れることも容易ではない。
したがって、人びとは気に入ったものの姿を見聞きしては正しく思い、気に入らないものの姿を見ては慈しみの心を養い、常に正しく考えて、この三つの火を消さなければならない。もしも、人びとが正しく、清く、無私の心に満ちているならば、煩悩によっても惑わされることはない。
貪り、怒り、愚かさは熱のようなものである。どんな人でも、この熱の一つでも持てば、いかに美しい広びろとした部屋に身を横たえても、その熱にうなされて、寝苦しい思いをしなければならない。
この三つの煩悩のない人は、寒い冬の夜、木の葉を敷物とした薄い寝床でも、快く眠ることができ、むし暑い夏の夜、閉じこめられた狭苦しい部屋でも、安らかに眠ることができる。
この三つは、この世の悲しみと苦しみのもとである。この悲しみと苦しみのもとを絶つものは、戒めと心の統一と智慧である。戒めは貪りの汚れを取り去り、正しい心の統一は怒りの汚れを取り去り、智慧は愚かさの汚れを取り去る。
人間の欲にははてしがない。それはちょうど塩水を飲むものが、いっこうに渇きがとまらないのに似ている。彼はいつまでたっても満足することがなく、渇きはますます強くなるばかりである。人はその欲を満足させようとするけれども、不満がつのっていらだつだけである。
人は決して満足させることができない。そこには求めて得られない苦しみがあり、満足できないときには、気も狂うばかりとなる。
人は欲のために争い、欲のために戦う。王と王、臣と臣、親と子、兄と弟、姉と妹、友人同士、互いにこの欲のために狂わされて相争、互いに殺しあう。
また人は、欲のために、身・口・意の罪を重ね、この世で苦しみを受けるとともに、死んで後の世には、暗黒の世界に入って、さまざまな苦しみを受ける。
愛欲は煩悩の王、さまざまの煩悩がこれにつき従う。愛欲は煩悩の芽をふく湿地、さまざまな煩悩を生ずる。愛欲は善を食う鬼女、あらゆる善を滅ぼす。
愛欲は花に隠れ住む毒蛇、欲の花を貪るものに毒を刺して殺す。愛欲は木を枯らすつる草、人の心に巻きつき、人の心の中の善のしるを吸い尽くす。愛欲は悪魔の投げた餌、人はこれにつられて悪魔の道に沈む。
飢えた犬に血を塗った乾いた骨を与えると、犬はその骨にしゃぶりつき、ただ疲れと悩みとを得るだけである。愛欲が人の心を養わないのは、まったくこれと同じである。
一切れの肉を争って獣は互いに傷つく。たいまつを持って風に向かう愚かな人は、ついにおのれ自身を焼く。この獣のように、また、この愚かな人のように、人は欲のためにおのれの身を傷つけ、その身は焼く。
外から飛んでくる毒矢は防ぐすべがあっても、内からくる毒矢は防ぐすべがない。貪りと怒りと愚かさと高ぶりとは、四つの毒矢にもたとえられるさまざまな病を起こすものである。
心に貪りと怒りと愚かさがあるときは、口には偽りと無駄口悪口と二枚舌を使い、身には殺生と盗みとよこしまな愛欲を犯すようになる。
意の三つ、口の四つ、身の三つ、これらを十悪という。
知りながらも偽りを言うようになれば、どんな悪事も犯すようになる。悪いことをするから、偽りを言わなければならないようになり、偽りを言うようになるから、平気で悪いことをするようになる。
人の貪りも、愛欲も恐れも怒りも、愚かさからくるし、人の不幸も難儀も、また愚かさからくる。愚かさは実に人の世の病毒にほかならない。
人は煩悩によって業を起こし、業によって苦しみを招く。煩悩と業と苦しみの三つの車輪はめぐりめぐってはてしがない。この車輪の回転には始めもなければ終わりもない。しかも人はこの輪廻から逃れるすべを知らない。永遠に回帰する輪廻に従って、人はこの現在の生から、次の生へと永遠に生まれ変わってゆく。
限りない輪廻の間に、ひとりの人が焼き捨てた骨を積み重ねるならば、山よりも高くなり、また、その間に飲んだ母の乳を集めるならば、海の水よりも多くなるであろう。
だから、人には仏性があるとはいえ、煩悩の泥があまりにも深いため、その芽生えは容易ではない。芽生えない仏性はあってもあるとはいわれないので人びとの迷いははてしない。(仏教聖典 第四章 第一節 心のけがれ 勝鬘経)
Posted by katsukino at 21:00│Comments(0)