2011年12月30日

法としてそのままに生きる

生きとし生けるものは、安定と快適、楽という幸せを願っている。海に生けるもの、陸に生けるもの、大空に飛ぶ生けるもの、地中に生けるもの、すべての生けるものは劇的に変化する環境に押し流されながらも、自身を見極め、生きる道を選択し続けながら生きている。私たち人類も条件は同じ。生きる目的は安定と快適、楽という幸せ。

人類は、五感と心を制御して他人と対話し仲間を作り海や森、空や大事の上に文明を張り巡らした。衣・食・住。寒さ、暑さをしのぐ衣服、水、野菜、肉というエネルギー。そして、家という境界。子を生み、育て、親から子へと衣食住を継承する。暑い時には、建物の中を冷やし、寒い時は、建物の中を温める。肌に触れる心地よさを求め、衣服を身につけ、舌が満足する食べ物を飲みこんだ。すべては幸せの為の生きるものの追求。

 日本は春・夏・秋・冬と季節がめぐる。夏、子どもたちがアミを持って、山を駆け回り、セミやカブトムシを捕まえる。成虫は、夏の終わり卵を残し死ぬ。太陽を追っかけていた、向日葵もカラカラに枯れて種を残して頭を垂れる。秋は落ち葉が山を覆い、紅葉が色づく。移り変わる季節のもとで滅ぶ。滅ぶとは形を変えるということで、なくなることではない。秋空の下、ダイコンの種まきをしようと畑で肥料をおこすと、カブトムシの幼虫がごろごろと、丸くなった姿勢で生きている。幼虫は冬になり、春になり幼虫はサナギになり、姿勢を起こす。夏休み、サナギから成虫になり樹木を這い上がり汁をすい、他のオスやクワガタと食べ物の奪い合いをしてメスと結婚する。

守るとは、形を変えることであり、現実を受け入れる勇気。必要な栄養は生きるという積極性。否定的な姿勢を続ければ、変化する季節を受け入れることが出来ず、昔は良かったなー、今は異常気象だ。と不安が生まれ現実を客観的に理解できない。そして恐怖から生まれる理想を追い求め続ける。

積極性は現在の状況をリアルタイムに理解する。過去のデータや未来の予測は現状の理解を深める為の情報であり、目的ではない。それらを統合して、現在の状態をより、最適化していく。環境を受け入れ、移り変わる季節に自分という環境を適応していく。向日葵もカブトムシも樹木も行っている自然な行為。

 生きるとし生けるものは共に生きている。私たちもその一部にすぎない。カブトムシが「俺はオレ流で環境なんかに負けないぞ。」といったら、卵を産む場所がないだろう。すべては、預け預けられる関係の中で生まれ死ぬ。共に生きている、死んでいるという積極的な姿勢を持つことが、法としてそのままに生きる、流れているということ。

 法爾の道理という事あり。ほのおはそらにのぼり、水はくだりさまにながる。菓子のなかに、すき物ありあまき物あり。これはみな法爾の道理なり。阿弥陀仏の本願は、名号をもって罪悪の衆生をみちびかんとりかい給いたれば、ただ一向に念仏だにも申せば、仏の来迎は法爾の道理にてうたがいなし。
と法然上人のご法語にある。

早朝、向日葵は東を向き、最後は西を見ながら一日を終える。法としてそのままに生きる向日葵。人間はどうだろうか?見るもの、聞くもの、匂うもの、味わうもの、触れるもの、心の動揺、これら法爾の道理を理解しているだろうか?預け預けられる環境を弁え、共に今を生きる。共に生きるとは、お互いに対話する関係の事。海も森も大地も生きるものは弁えながら、自分の可能性を最大限に発揮して生きる。そして今、美しい星空、山並み、人々の絆がある。

人間は弁えながら、命をつないできた。生ずる・老いる・病む・死ぬという現実を受け止めてきた。人間としての法爾の道理。「菓子のなかに、すき物ありあまき物あり」とあるように私のなかに、「貪り、怒り、無智」がある。積極的に私と共に生きてみる。こんな事で怒るのか、こんな物にまで、執着するのか、ここまで評価されたいのか、と自分を弁えて理解する。理解するとは対話すること。自分と共に生きる姿勢が生まれた時、家族と社会と地球と対話が出来る。私を弁えて明らかにした姿勢は畏敬の念が生まれ、南無阿弥陀仏と念仏する。その時、環境は安定して快適、楽のある世界。

法としてそのままに生きる。


タグ :仏教


Posted by katsukino at 15:59│Comments(0)
 
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