2010年11月12日

偏在的な苦:2010ダライラマ法王法話会

偏在的な苦:2010ダライラマ法王法話会

「輪廻と業果」と題しての
ダライラマ法王の
法話。

質疑応答にて
 「私には障害を持った子どもがいます。
 障害をもった子どもを持つ私。
 障害をもって生まれてきた子ども。
 私たちは、前世の因で今こうして苦しみを
 持っているのでしょうか?」

といった内容の質問がありました。

ダライラマ法王は答えます。
 「まず、私たちが肉体を持って生まれているということは
 輪廻の中にいるということであり、その肉体を持っている
 限りはすべての人は苦しみの中にいる。
 生きるということは苦しみ。」

スクリーンにアップで
映し出されるダライラマ法王。
その表情、視線は
生きとし生けるもの。
世界の人々。
をみている。

続いてダライラマ法王は
 「あなたのお子さま、あなたの苦しみは分かります。
 世界中において、子どもたちが戦争、貧困とさまざまな
 環境において、苦しんでいます。
 あなたのお子様は日本において、
 家族に支えながら生きています。
 自分の苦しみから他の多くの人の
 苦しみを思うこと。そのことで自分の
 苦しみを減らしていく。」



このようなからだと心の苦しみには、三つあります。
第一の苦しみは、「苦痛に基づく苦」(苦苦)と呼ばれるもので、病気や飢えや痛みなどの苦痛によって、ふだん私たちが苦しみとして認識し、実際に苦しみだと感じている類いのものです。この種の苦しみは、動物たちでも認識することができます。
そして第二の苦しみは、「変化に基づく苦」(壊苦(えく))と呼ばれるものです。
これはどういう苦しみかと言いますと、ふつう私たちが幸せを感じて、それを幸せだと思っているものがありますね。それらが、「変化に基づく苦」と言われるカテゴリーに入ります。つまり、心とからだの両面において、ふつう私たちが幸せだと感じているすべてのものは、実は苦しみの本質を持ったものなのです。

(略)車を買ったばかりのときには、その車は最高の幸せをもたらしてくれる源であり、その車を持っていることが、この上ない幸せそのものであったのに、しばらくたつと、その車にもあきて嫌気がさしはじめ、「こんな車なんてもういらない」と思ったりすることなど、私たちの身のまわりではよく起きていることだと思います。この例からもわかるように、私たちに幸せを提供してくれる新しい車など、すべてのものは、実は変化に基づく苦しみの本質を持ったものなのです。

これは、私たちの感じる幸せの感覚のことだけを言っているのではありません。新しい車によってもたらされる、心の中の嬉しさや喜びなどの感情はもちろんのこと、これらの感情を生み出すもととなった新しい車も、変化に基づく苦しみの本質を持っているのです。
(略)
偏在的な苦
私たちにはからだがあるがゆえに、「苦痛に基づく苦」が起きてきますし、「変化に基づく苦」も起きてきます。これと同じように、私たちの心にも、病気や痛みによる精神的な苦しみが生じてきますし、いずれ苦しみに変わりゆく本質を持った、幸せの感覚も生じてきます。

心とからだの両方に、この二つの苦しみが生じてくるのはなぜなのでしょうか。まず、私たちが今持っているこのからだは、どのようにして得られたものなのかと言いますと、私たち自身が、以前になした行いの結果として得られたものなのです。ですから私たちのからだは、自分自身の以前の行い、という他の要素に依存して生じてきています。そして、その行いをなしたときの心の動機も、煩悩という他の要素に依存しています。

ですからもとをただせば、私たちの心が、煩悩という自分以外の他の力に支配されているがゆえに、煩悩に影響され、それに惑わされて間違った行をなし、その行いによって、五蘊によって構成されたこのからだを得ているわけなのです。つまり私たちは、煩悩によって汚された因果の影響下において形成された心とからだを持っており、それによって起こる偏在的な苦しみを常に抱えています。このような、心もからだも煩悩という他の力に支配されている状態を、「偏在的な苦」(行苦(ぎょうく))と呼んでいるのです。

まとめて言いますと、仏教では、「苦痛に基づく苦」、「変化に基づく苦」、「偏在的な苦」、という三つの種類の苦しみがあると説いています。
(略)
釈尊の教えによる苦しみについての瞑想は、「偏在的な苦」について考えることを主体としています。煩悩の力に支配されているがゆえに、自分で自分をコントロールすることができない状況に陥っている苦しみについて考えるのです。これが釈尊の教えである仏教だけに特有な修行であり、「偏在的な苦」が苦しみの本質であることを理解して、この苦しみを常に背負っている自分の今の状況を嫌悪し、そこから何とか抜け出したい、という気持ちを起こすことが、仏教の修行の大切な基盤となっています。

この「偏在的な苦」を理解するためには、自分自身が煩悩という他の力に支配されていることを認識しなければなりません。そしてそれには、煩悩とはどういうものなのかを知ることが必要であり、仏教では、この煩悩こそ、私たちを害している本当の敵であることをはっきりと認識することが必要とされています。(智慧と慈悲より)


タグ :仏教


Posted by katsukino at 12:11│Comments(0)
 
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